binbo日記∞

とある大阪大学生が、新しい遊びを見つけつつ、勝手にいろいろ書いていくブログです。

人を嫌うということ (ゴルシュン)

あいつは空気が読めないと不満を漏らす.あいつは虚言癖だと陰口を言う.あいつは自己顕示欲が強過ぎると非難する.

だが,その”あいつら”は,言うまでもなくなりたくてそうなった訳ではない.二十数年間生きてきた中での環境が,家庭が,友達が,ゆっくりを時間をかけてこじ開けた心の隙間を埋めようとして暴れてしまっているのだ.

 

思うに,そのような負のエネルギーは,他人は勿論,自分自身にすら全く制御できないものなのだろう,と感じる.理性が干渉できる領域などたかが知れていて,性善説なんてものは糞食らえだ.注意して治るとか,きっとそんな次元じゃない.狂おしいほどに他人が羨ましくて,身悶えるほどに満たされないから,強引な手段で無理矢理その隙間を満たそうとし続けている.

 

ならば,その暴走した言動だけを咎めるのは,もはやナンセンスなように感じてしまう.インターネットの心無い言葉で自殺してしまった著名人に悪意をぶつけていた人達は,自分が死なないために他人に悪意をぶつけていたのだろう.その悪意を辿れば心に深い闇があって,それは人生の長い期間をかけて蓄積されたものだから,一朝一夕で,と言うより残りの人生をかけても矯正できるものではないのだろう,と思ってしまう.

 

色々な悪意が日常の中に飛び交っている.ただその悪意は,「悪」なんて二元論に落とし込んでいいものではない.易々と「直すべきだ」なんて安直に述べることは容易だが,それが正解なのだろうか.

 

俺の嫌いなあいつは,そうなってしまったバックボーンがある.短絡的に「嫌い」でも済ませるのは簡単だけどそれは真に理性的な判断か?最近そう考えてしまう.

ただ,その言説を適用するなら,俺は何を憎んで,何を糾弾すればいいんだろうか.いつか全てを丸め込んで許せる日が来るのだろうか.この考えすらも”青臭い”と恥ずかしくなる日が来るのならば,それは幸福なことのように思える.

俺は幸福になりたい